セイチェントIII 「過去の将来」古楽と現代の狭間から〜に参加して考えたこと

2018年9月9日、ソノリウムで開催されたセイチェントIII レクチャーコンサート「過去の将来」〜古楽と現代の狭間から〜に参加した。☆この企画の概要については、セイチェントのサイトの告知記事を参照のこと。

以下、ざっくりとしたメモ、そして考えたことなどを記しておこう。

セイチェントIIIチラシ

 

前半は、イギリスから音楽学者アンソニー・プライヤー Anthony Pryer氏を迎えてのトーク。

豊富な事例をスライドショーで示しながら、きっちりと論理的な構成で進めていくレクチャーであった。企画構成&通訳&スライド担当の松本直美さんと、事前に綿密な打ち合わせがなされていることがよくわかる。実に素晴らしい企画であった。

目から耳から次々と半端ない情報量が入ってくる。時々発せられたであろうジョークも味わう余裕がないほど、盛りだくさんの内容だった。後半のコンサートと合わせて、大変充実した内容だったと思う。

レクチャーの主旨は、日英でプログラムに掲載され配布されたが、ここで転載することは省く。およそ1時間にわたり、古楽に関する様々な要素についての分析、「オーセンティック」というコンセプトについて詳細な問題提起がなされ、重要な指摘を多々含んでいた。

演奏する側にとっては「音楽学分野の研究と、演奏実践との関係はどうあるべきなのか? 研究から得られる情報をどのように演奏に反映させるべきか?」が大きな関心事なのではないかと思う。私にとってはそうだ。

その点について、レクチャーの終盤あたりで、とてもわかり易い比喩によって説明された箇所があったので記しておこうと思う。

プログラムには掲載されておらず、残り時間が少なくなったため端折り気味に話されていたので、時間としてはわずか20秒ぐらいの間だったと思う。気に留めなかった人も多かったかもしれない。しかしながら私にとっては、これからどういうアプローチをしたいかを考える上で、大きなヒントを得た。

 

・・・演奏家は論文の脚注を演奏することはできない。論文は「メニュー」であって「食べ物」ではない。

音楽の価値は「音としての素晴らしさ」にあり、音楽を聴く人々が求めるのは「賢さ」ではない。・・・

 

音楽を食べ物に喩えるのは、レクチャー冒頭での「音楽を味わう体験」がどのような要素によって構成されているか、というテーマに呼応しているのだろう。そしてこの言葉が、演奏家ではなく、音楽学者の口から語られていることが重要だ。

レストランに入って「メニューを読むこと」と「料理を食べること」が、体験として全く別のことであるのは、誰にとっても明白だ。メニューを眺めただけではお腹は膨れない。

演奏家は、食べ物を美味しい食事になるよう調理すること、そしてそれを無理やりお客様の口にねじ込むのではなく、喜んで口に運んでもらい、美味しく味わってもらえるよう務めること。

ちょっと珍しい食材は、まず演奏家自らが美味しそうに食べてみせること。お客様が味見したくなって思わず手を伸ばしてしまうように。

お客の立場からすると、たまには高級なレストランで、ウエイターさんによるメニューの口上を聞いてから料理を味わう、というのも特別感があってよい。ちょうど今回の音楽学者と演奏家のコラボレーションのように。

もう少し気楽に、小料理屋でカウンター越しに「今日はよい素材が入ってね・・」という大将の説明を聞きつつ、皿を受け取る。そんなカジュアルスタイルも楽しい。

私はずっとこんなイメージで、トークつきのリュート・コンサートをやってきた気がする。私は小料理屋の女将であった。

家族や自分のために用意する毎日の食事。ありきたりだけど飽きることはない、安心して口に運ぶことが出来て、心身が満ち足りるーー。何の説明もいらない日常のごはん。

いつかリュート音楽がそんな存在になったらよいなと願う。

文字通り、毎日キッチンで火に鍋をかけながら、食卓にタブラチュアを広げてリュートを練習してきた私には、「メニュー」と「食べ物」の比喩はとてもしっくりくるものだった。

最後になりましたが、企画の松本直美さん、出演者の皆様、主催のThird Ear Projectさん、共催の古楽かふぇさん、どうもありがとうございました。まだ次回の開催を期待しております。