イギリス商館設立のきっかけ〜船上での日英音楽交歓

阿蘭陀船
松浦史料博物館サイトより画像をお借りしました。

1549年にザビエルが来日して以降、キリスト教布教に伴いセミナリオなどでは西洋音楽が演奏されていたことは知られるようになりました。

では、1612年の禁教令以降、日本における西洋音楽事情はどうだったのでしょうか?

先日、資料の整理をした際、30年ぐらい前にコピーした『洋楽伝来史』(海老澤有道・著)の一部が出てきて、オランダ・イギリス商館での音楽に関する面白いエピソードが掲載されていたので、引用して紹介します。

平戸でのオランダ商館・イギリス商館の設立

まずは、ざっくり歴史的な流れ。

カトリック教国であるスペイン・ポルトガルは、貿易とキリスト教布教とをセットにして日本に売り込もうとしました。外国と貿易したい気持ちはあったものの、キリスト教布教の勢いに恐れをなした江戸幕府は1612年、禁教令を発布します。

それに対し、商売敵であったオランダとイギリスは、キリスト教布教を行わないことを条件に、貿易を行うこととし、まずは長崎の平戸にオランダ商館(1609年)とイギリス商館(1613年)を建設。

(その後、イギリス商館は1623年に閉館となり、オランダ商館は、現在観光地として有名な長崎・出島へと移転することになります。)

もちろん、彼らもイギリス聖公会またはオランダ改革教会に属していたわけですが、貿易のために信仰心をひた隠しにする方針に徹します。

音楽はキリスト教布教の一つの有効な手段とみなされていたため、禁教令以後に宗教的音楽が演奏された史料は極めて乏しくなります。

ここまでが表向きの大まかな流れです。

では、本当に商館内での日常生活の中で、讃美歌や詩篇などを歌ったりすることはなかったのでしょうか?

あるいは、せめて世俗曲の演奏はなかったのでしょうか?

船上での日英・音楽交歓

イギリス東インド会社代表トーマス・スミス肖像画
クローブ号を手配した東インド会社代表トーマス・スミス セーリスの肖像画はない

先に挙げた『洋楽伝来史』(海老澤有道/著)では、世俗曲が演奏された例がいくつか挙げられています。

その一つ、以下に引用するのは、最初にイギリス人が交易を求めて平戸に入港した際の、船上での日英音楽交歓会の記録です。西洋側に残された記録なので、西洋音楽の記録というより、むしろ西洋人からみた日本の音楽の観察記録となっています。

記録したのはイギリス船として初来日したイギリス東インド会社グローブ号の指揮官セーリス。『 』内がセーリスによる記述で、それ以外は、海老澤氏による解釈です。

以下、同書の「第8章 禁教鎖国下の洋楽知識」より引用。

例えば、1613年6月、セーリスがイギリス国王ジェームズ1世の国書を携えて平戸に入港した11日、松浦法印鎮信と当主の隆信とが船を訪ねてきた。

『私(せーリス)は彼らを私の船室に案内した。そこには彼らのためのために饗宴とよく整えられた音楽を用意しておいた。それは彼らを大いに喜ばせた。』

翌日も鎮信は婦人たちを連れて来訪した。

『彼女たちは多少はにかんでいるように思われたが、王(鎮信)は彼女にもっと陽気にやるように望んだ。彼らは種々の唄を歌い、ある種の楽器類(その一種はわれわれのリュートに非常によく似ていた)を演奏した。それはそれ[リュート]のよう胴がふくれているが、ネックはもっと長く、われわれのもののようにフレットが付されているが、四つのガット弦を持つのみである。彼らの指動きは、われわれと同様、左手はすばやいが、右手はわれわれがシターンCitterneを爪[プレクトラム]で弾くように、象牙[の撥]で打つのである。彼ら自身、その音楽に打ち興じ、手拍子を打ち、われわれとよく似ている線とスペースのある本で演奏したり唱ったりした。』

と、音楽で日英交歓を楽しんだ有様を描いている。イギリス側の用意した音楽が何であったかはわからないが、世俗楽であったことであろう。
日本側のリュートに似た四弦楽器は筑前系の琵琶であったに違いないが、ネックがリュートより長いというのはいささか解釈しかねる。シターンはいわゆるイギリス=ギターである。

『洋楽伝来史』海老澤有道/著

セーリスが松浦氏たちのために用意した「よく整えられた音楽」の具体的な内容が気になりますが、年代としていわゆるエリザベス朝〜ジェームズ一世あたりの世俗音楽、リュート奏者でいうならダウランドやロビンソン、ロバート・ジョンソンの音楽スタイルの曲であっただろうと思われます。

西洋音楽側の記述がそっけないのは残念ですが、記録史料というのは、えてして記録する人にとって「よく知っていること」「当たり前のこと」については、詳しく記録されないものですね。

でも「それは彼らを大いに喜ばせた」という一文で十分。

「ああ、当時の日本人も、今の私たちと同様にイギリス・ルネサンス音楽を美しいと思ったのだ」ということに胸が熱くなります。

そして、セーリスたちイギリス側の饗宴への返礼としての邦楽の様子は「松浦氏自身、その音楽に打ち興じ、手拍子を打ち・・」と、これはかなりのドンちゃん騒ぎなのではないでしょうか?容易にその様子が目に浮かび、音楽が聴こえてくるようです。

松浦氏たちが連れてきた婦人たちが、三味線ではなく琵琶を伴奏に陽気に唄ったという部分が、一体どんな音楽のことを指しているのか、やや疑問なのではありますが、弦が4本、リュートに形が似ている、という記述を優先させると琵琶という理解が正しいのでしょう。

盲僧による筑前琵琶でなくて、女性の唄を伴う琵琶音楽というのが全くイメージできなくて、何ともコメントできません。勉強が必要です。

1613年という時代に、船上でこのようなイギリスと日本の音楽交歓会が行われたかと思うと、かなりワクワクしますね。

そして、この船内での音楽交歓会が功を奏したのか、セーリスは、平戸に上陸、ウィリアム・アダムスを介して徳川家康に拝謁、ジェームズ一世の国書を渡し、無事に通商許可を獲得、平戸にイギリス商館を構える運びとなります。

『洋楽伝来史』には細かな注釈がついていますので、出典や詳細を知りたい方は書籍をご覧下さい。
古い本なので、その後研究が進んで更新された情報もあるのかもしれませんが、他にも興味深いエピソードが収録されています。