オランダ商館での音楽
平戸オランダ商館での音楽
前の記事:イギリス商館設立のきっかけ〜船上での日英音楽交歓 の続きです。
今回は、平戸オランダ商館での音楽事情について、同じく『洋楽伝来史』(海老澤有道/著)から引用して紹介します。
なお、トップ画像は、復元された平戸オランダ商館。
(画像:CC 表示-継承 4.0 )
平戸にオランダ商館が設立されたのは、1609年。
1626年のクリスマスに当たっても、
『12月23日、24日、25日。クリスマス。変わったことなし。』という調子で商館日誌に記録されているにすぎない。日曜日はもちろん、教会の祝祭日にも特に礼拝を守った記録を見出さないのである。
『洋楽伝来史』第8章 禁教鎖国下の洋楽知識 オランダ商館の音楽
前記事で記した通り、オランダ人たちはキリスト教の信仰を持ちつつも「貿易はするが布教はしない」という日本との約束を守るべく、キリスト教徒にとって最も大事なクリスマスでさえも「特に変わったことなし」で過ごしていた、少なくとも表向きはそうであったことがわかります。
禁教令前、キリシタン布教の最盛期には日本人さえもクリスマスの祝宴を開いていたのに、これは寂しすぎます。
オランダ商館内での宗教生活
ところが、それから14年後・・・。
1640年、上使大目付 井上筑後守がオランダ商館視察を行った際、商館の屋根一部に西暦年号が書かれていることに気がつき、それを咎めます。
西暦年号はつまりはキリスト生誕からの年月を示しているので「けしからん」というわけです。
『・・貴下らは十誠、主祷文、信条、洗礼、またパンを授けること(聖餐)、聖書、モーゼ、預言者および使徒を信じており、要するに(ポルトガル人と)同一の所業である。』
として年号のある建物全部の破却を命じ「主日の公拝を許すことはできない」と通達した。
同上
最初はクリスマスも我慢していたオランダ人たちも、時が経つにつれて態度は緩みがちとなり規則もなあなあになっていたのでしょう。
この記録に対して、海老澤氏は「改めて宗教的な行動を禁止する通達が出ている=オランダ商館での宗教生活が行われていた」と読み解きます。
・・これによってオランダ人たちが、宗教生活を守っていたことだけは明らかに知られる。牧師は渡来していないので、洗礼や聖餐式が行われたか疑問である。
(中略)
商館長ル=メールの報告書にも、
『オランダ人が(ポルトガル人のなせるが如く)第七日を公に祝ひ、奨励(説教)、祈祷および賛美歌の儀式を行い、いかなる仕事もなさず、この如くしてキリスト教に帰依せしめしことを明らかに認めたり。』
とあって、安息日を守り、讃美歌を加えた礼拝が行われたことが確認できる。
同上
これに対しても、筑後守らは、厳しく注意する書簡を残しています。
キリスト教の儀式を行わず、日本人を信者としないように、祭日・日曜日を祝すること、並びにキリスト教の勤めを行うことを厳禁されたとのことである。
同上
結局、商館の破却によって、1641年、オランダ商館は長崎・出島へと移転することになります。
出島オランダ商館での音楽
では、出島移転後のオランダ商館での音楽、宗教生活はどうだったのでしょうか。
・・・1642年、ヴァタビア総督ファン=ディーメンは老中に宛てて「その島および船上において、われわれが神の礼拝を執行することがご禁制であるが、それはわれわれを苦しめ、かつ前からの[与えられた]自由に違反するものである」と抗弁した書簡の中に、
『われわれはトランペットを吹くことすら禁じられている。』
と述べている。
同上
様々な合図のために吹いていたであろう、トランペットさえも禁じられているほどの厳格さを見せています。
それから4年後。
・・・1646年9月20日、ときの出島蘭館長ファン=ツムは、商館員が聖書・讃美歌その他の宗教用品を所持すること、祈祷を唱え、日曜・祝日を守ることを禁ずると、正式に通達するに至った。
同上
上記のような通達が何度も出されています。
やはり平戸時代と同様、ちょっと時がたつと、最初の決まりはどこへやら。
実際には商館内で宗教生活が行われていたことを示しているわけで、事実、阿蘭陀冬至つまりクリスマスを祝い、新年には三味線や鼓を携えた丸山遊女や通詞を招いての盛大な祝宴が行われていたことが知られています。
音楽についての明確な記載はないものの、オランダ教会の慣例に習い、詩篇が歌われていたことは記述されています。
これは平戸時代から行われていたとも言われるが・・1659年1月2日の夕刻、商館長以下が集まり、
『特別の意図から選んだ詩篇のうちから、二、三節を選んで歌った。』
・・・たとえ歌集は船底に封印してあっても、主要なものは暗誦していたのであろう。
同上
更には、1661年、正式に牧師による結婚式と洗礼式が(つまり日本におけるプロテスタント最初の結婚式・洗礼式)が出島で行われたという驚くべき記録があることも同書で紹介されています。
以上のことから、度々の禁止通達にも関わらず、実際には、平戸・出島時代を通じて、オランダ商館内では詩篇や讃美歌が歌われていたことが伺えます。
彼らは宣教師ではなかったため、日本人に布教することはありませんでした。しかし、異国での隔離された生活の中では、信仰が精神的な支えであること、その発露としての音楽を完全に封印することは不可能であった、ということは容易に想像がつきます。
18世紀以降の出島オランダ商館の生活
同書『洋楽伝来史』(海老澤有道/著)は、この後もオランダ商館での音楽事情について続くのですが、18世紀後半になると蘭学も盛んになったことから、他の西洋知識と同様、音楽や楽器についての記録も比較的多く残されるようになり、それに関する論文や書籍も多数ありますので、ここでは引用しません。
興味のある方は、同書をぜひご一読下さい。
現在の私たちが、オランダ商館での様子を知る最も簡単な方法は、長崎の出島に出かけること。
ここ数年、歴史的な研究が進み、埋立地となっていたためわかりにくかった扇形の地形と、市街地とをつなぐ橋も再現されました。
彼らの生活や祝宴の様子なども、史実通りに再現されており、空間や広さの感覚を掴むことができます。意外とベッドが小さいことや、彼らがとても狭い土地に隔離されていたことなどがよくわかります。
せめてサイトでご覧ください。出島サイト
上記記事内で引用したのは『洋楽伝来史』(海老澤有道/著)です。出典やより詳しく知りたい方はぜひチェックしてみて下さい。
オランダに残されていた遊女たちの手紙を初翻訳。出島に出入りできた日本人は、通詞と僧侶、そして遊女たちだった。
コミックならこの一冊。
平戸にオランダ商館が設立されたころのオランダ・リュート音楽なら
Dutch Light: The Lute Music of Nicolas Vallet
Philip Rukavinaによる演奏で。
↓部分的に試聴できます。6番の曲は当時の流行歌なので、もしかしたらオランダ商館でも口ずさまれたかも。
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同じくN.ValletをA.Bailesによる演奏で。一曲のみ試聴できます。
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